当たり前だけど、一番大事なもの
とある夕方。建物から出ると、いきなり冷たい風にぶち当たった。なんだか、異常に寒い。そんなに気温は低くないはずなのに。変だなと思いつつ、からっぽの胃袋を慰めるために定食屋へ。いつもなら一度も箸を置くことなく食べ終わってしまうのに、異常と言っていいほど箸が進まない。結局、半人前ほど残してしまった。こいつはおかしいぞ。案の定、その夜、高熱が出た。
高熱ってどのくらいあったの?と聴きたくなる人が多いということを経験上感じるが、独り身の男がそうそう体温計なんて持ってはいない。実際に何度あったかは自分でもわからない。でも歩くと視界が霞み、一度ベッドに入ると物を取りに外に出ようにも体が全く言うことをきかない。その晩は結局夢にうなされながら、1時間おきくらいに目が覚めては時計を見て、水を飲みというのを繰り返していた。
ようやく朝が来たと思っても、まだまだ熱がくすぶっていた。まだ一端の人間として動けるほどの状態じゃない。その日は各所に連絡を入れ、全てを放り出して寝ることにした。今度は夜と違って、長いこと寝られた。
次に目を覚ましたのが昼過ぎ。重りがたくさん外れたようなに体が軽い。これはチャンスだ。重大な決意をするかのように、病院に行く決心をした。軽く着替えて、近くの病院へ。看護師から、鼻に長い綿棒のようなものを入れられて、ぐりぐり回される検査を受けた。お医者に言われたのは、「インフルエンザの反応は出ていませんが、限りなくそれに近いものでしょう」。よく分からない感情のまま薬をもらい帰った。
と、先日のことをダイジェストで書いてみたけど、だからなんだという感じだろうね。僕としては久しぶりの高熱だったのでびびったというのとを書きたかっただけ。
熱というのはすごい。本当に動けなくなる。普段比較的体は健康なので、風邪を引くこともそんなにない。だから、病気で入院している人や難病をかかえている人の状態を気持ちでは理解できても、実際に自分のこととして理解することはなかなかできない。こうやって自分が高熱を出してみて改めて、健康でないことの怖さを感じることができた。子供みたいだが、そういうことを考えていた。
体の健康も、心の健康も、普段から注意しておかないといけない。夢を叶えたり、出世したりすることも大事かもしれないけど、結局は健康には変えられない。高熱くんが、そんな当たり前のことを教えに来てくれたのでした。
自分の失い方
先日、ふと気がついた。自分は相手に合わせすぎなんじゃないかと。そういう自覚は前からないことはなかったが、この前初めて現実的に気がついた。
友人とバーで飲んでいたときのこと。その人が話していることに、つい話を合わせている自分がいた。内容も忘れてしまったくらい、どうってことのない話なのだが、そう思っていもいないことを、その人に合わせるという意味だけでつい話していた。
これだけ書いても、自分でもよくわからにけど、あのときは本当にはっとしたんだ。ああ、こんな自分は嫌いだなと。
もともと私は、周囲に好かれたいだの、リーダー的な存在でありたいだの考えるタイプの人間だったと思う。そうならば、周りに合わせるよりも自分らしくあった方が良いはずなのだが、どうしたことか方向を誤って周りに合わせすぎるようになっていた。
特に、自分が不利な状況になったときはこういう傾向が顕著なように感じる。そういうときこそ、自分らしさを出すべきなんだけどな。
今回学んだ教訓は以下のようなものだ。
①周りの人すべてに好かれようと思いすぎない。一部の人に認められたらいい。
②相手の話に合わせるような人間と話していても面白くないだろ。
③八方美人なんかより、本音を話す人の方が信頼される。
上の文章とも関連がなくて、私の文章力の無さを露呈するような内容になっているが、こういうことを気をつけていかないとなと思う。
承認欲求とやらをこじらせた結果、私のような失敗が起きるんだろうな。これにやっと気がついたことを気に、相手に流されない自分というものを確立するために頑張りたい。それにしても、まだまだ学べることって多いんだなあ。
【映画】「海賊と呼ばれた男」 〜働く我々へのエールか
何のために私たちは働いているんだろうか。映画「海賊と呼ばれた男」を観て、そういうことを考えさせられた。飯を食うためだけに働くのか。そうではなく、何かもっと大きなもののために働くのか。働くことについていつも考えている今の自分には、良い刺激になった。
主人公は出光興産の創業者がモデル。同作中では北九州門司で小さな石油会社を起こした国岡が、突拍子もないもないアイデアの連続で急成長を果たす。戦争の混乱で会社はぼろぼろになりながらも、完全日本資本企業の誇りを胸に、御用組織や海外メジャーを渡り合って行くというストーリーだ。原作の同名小説のストーリーをよりコンパクトに、わかりやすくしているように感じた。
同映画のメッセージも、外国に負けないように頑張るぞ!というような、単純なストーリーにも思えなくもないが、恐らくそういうことではないように感じる。国岡が、どんな理想を掲げ、どんな思いで動き、どんな姿勢で部下に接していたのか。そういうことを示して、現代の働く世代にエールを送っているように思えるのだ。
石油会社はただの私企業であると言えばそのままだが、と同時に、国の経済を支えるもっとも重要なものを人々に供給する尊い仕事をしているともいえる。どんな仕事でもそうだろう。ただの薄汚い金儲けだと言える仕事も無いことはないけど、どこかにそういう、使命みたいなやつがあるはずだ。
僕は自分の仕事にそんなに誇りをもたずに、ただなんとなくこなしていた気がする。でも、そんな気持ちだったから、うまくいかずに怒られてばかりで、自分も成長しなかったんだろうと思う。自分の仕事の大切さをどこかで見出して、お客として待ってくれている人たちのために、自分が何をなせるのか。そういう姿勢で考えていたらもっとモチベーションも上がる事ができるはずだ。
主人公の国岡という男も、ただ自分の会社を大きくしたい、金儲けしたいという気持ちだけではなかったように思う。自分なりの理想を掲げ、それを自分の会社を大きくする事で達成しようとしていた。そんな自分について来てくれる部下達にも、特別な愛情を注いでいた。ただの金儲けではなく、社会に仕えているという気持ちがあったから、そういう姿勢になっていたのだろうと感じる。
それにしても、今の世の中には、国岡のようについて行きたくなるような社長ってどのくらいいるのだろうか。少なくとも僕は自分の会社の社長なんて、別に尊敬してはいないし、そもそもどんな人柄なのかもよく知らない。よその会社でもそんなもんだろうか。
自分が負わされる責任ばかりに目をやり、やれ減収がどうたらとか、やれコンプライアンスだ、やれ株価がと、そんなことばかりしか気にしていない社長が多い気がする。もちろん、国岡の時代のように経済成長抜群のイケイケの時代とは、まったく正反対の時代だから仕方ないとも思うが。それにしても、肝っ玉が小さいリーダーばかりに感じる。
かといって、自分がそんなリーダーになれるかと聞かれたらまったく自信がないのも事実だ。そもそもそういう時代ではないというのとか。これからはリーダーというよりも、一人一人が少しずつ社会を良くしたいという理想を持つ事が大事なのかもしれない。どうせ今更経済成長なんてできないんだから、少しでも住みやすい社会をつくろうと考えながら、働き方改革など働く一人一人が考えて行く事が大事だと思う。
だらだら働いても、肝っ玉の小さいリーダー達に食いつぶされるだけだ。そうではなくて、この仕事を何のためにしているのかと考えながら、働いていたい。
この映画を観て、そういう働く姿勢のようなことを深く考えさせられた。
形のない夢でも、酒に流したら勿体無いでしょ。
どんな酒も、一人で飲んだらうまくない。一時心を鎮めたいときや、すべてを投げ出したいときは一人でグラスを持つこともあるが、そんなことをしても結局はむなしいだけ。対して味も感じない。いつもそうだ。あくまで私の場合だが。
先日、大学生のころから仲良くしている友人と飲み歩いてきた。ただの友人というより、古き同士のようなものだ。こういう奴と飲むときは、一人で飲むときの何千倍かうまいように感じる。だから、酒は誰かと飲むに限る。
奴と会ったのは数ヶ月ぶりといったところだが、例によって将来のことを語り合った。しかし、その将来の話の前に出てくる話はもちろん、今の会社への愚痴。話し始めたら、深夜のだらだら続くバラエティ番組のようにくだらない内容が延々と出て来てしまう。これはこれで楽しいが、そんなん話すために会ったんじゃないだろ。「それより、これから何をするつもりなん」とどちらともなく切り出した。
「3年に以内には転職をする」「いつかは自分の会社を始めたい」「内容は決まっていなけど達成感のあることをやりたい」。互いに将来のことを語るが、出てくる話はどれもふわふわしていて形になっていない。学生のころ話した、「将来は自分たちの手で何かおもしろいことをやろうぜ」という枠からはまったく出ることができていない。
そもそも、二人とも学生のころ志望した業界にそれぞれ入っている。それもビッグな会社に。でも、その会社について不満と不安が募っていき、やっぱり何か自分たちの力でやってみたいと思ってしまう。飽きっぽいというべきか、それともそういうことに向いているということだろうか。
次の仕事は、もっと堅い仕事にしようと思うと奴が言うと、私は「そんな守りに入ってどうする」は言った。私が「地元に帰ってバーでも開きたい」と言うと、「そんなのは年寄りになってからすればいいだろ」とすかさず突っ込みを入れられた。
互いにやりたいことは具体的に決まってはいないが、やはり守りに入ったり、型にはまったりせずに、自分たちの力で何かをやらないという思いであふれている。そしてそれぞれがその思いを忘れそうになっても、互いに諭し合うことで若い思いを自然と保とうとしているのだ。
その晩は結局3軒はしごした。10杯くらい飲んだだろうか。ほろ酔いと、泥酔の間といったぐらいの酒の周り。自動改札に半ば寄りかかるようにICカードを振りかざした。電車の中でもずっと昔話と、将来の話が尽きなかった。ずっと笑っていたが、たまに真剣な顔になり何をしようかと唸り合った。
また飲もうなと言って、互いの家路につく。奴のいつも通りの大股で歩く後ろ姿を見つつ、将来の話は酒の席だけのもので終わせないぞと、頭の片隅で決心した。
昨日の自分と、今日の自分って同じ人なのかなあ
昨日の自分と今日の自分は何か変わっているのだろうか。そういうことを日々考えてしまう。多くの場合、変わってなんかいないよね。そんな一日で変わるようなもんでもないよね。
でも、そういうことを考えていないと不安になる自分がいる。昨日よりも成長していないなら、ただ一日を無駄にしただけではないのかと思ってしまうからだ。何か成長していないといけないという、強迫観念みたいなやつにも負われ続けている気もする。
単調な日々が怖いというのもある。かといって、激動の毎日だったら考え事をする暇もなくなってしまうので、後々変な後悔が残ったりもする。
ただ日々が意味も無く過ぎて行くのがいやだから、こうやってブログを書くなどして記録を残してるけど、どれもこれも上辺ばかりの言葉になってしまい、書いていて本当に意味があるのだろうかと考えてしまったりもする。
かといって、その日起こったエピソードや過去の経歴とかを具体的に書くと、いろいろと突っ込まれたり読んでほしくなかった誰かに読まれてしまわないだろうかという、変な恐怖感に包まれる。
そういう緩く弱い気持ちで書いているこのブログ。それでも、上にも書いたように自分の気持ちを記録する点ではそれなりの意味をなしているように感じる。過去のものを読み返すと、そのころの自分の気持ちを思い出す事ができないことはないからだ。
そんなときに、あ、自分の考えって短い期間でも変わる事があるんだ、と感じさせられるときがある。それが成長かどうかはわからないけど、日々変わっては来ているんだな。そう思うと少し、安心する。
記録して行かないと、ちょっとした気持ちや考えの変化なんて、どんどん流れていってしまう。そうせず、それらを精査する上で、少しでも自分の力にしていけたらなと感じる。
無駄な事なんてなんもないんだろうな。どんな単調な日々でも、激動の日々でも。そう信じて、自分の残像を残していきたい。
【映画】「この世界の片隅に」自分も映画の片隅にいるような感覚
せっかくのブログなので、観た映画について、ちょろちょろと感想を書いていこうと思います。拙い内容ですが、よろしくです!
「この世界の片隅に」
映画雑誌、キネマ旬報のランキングトップになったことで、それまで以上に知名度の上がった「この正解の片隅に」。同作は、年末に観たのだけど、今でもずーんと余韻が続いている感覚だ。ずーんずーん。内容はネタバレになるといけないからあまり書かないけど、簡単に言うと、戦時下の呉で苦しいながらも一生懸命生きる少女のお話。生活にもっとも焦点をあてつつも、ハテナが浮かぶ謎なシーンも多い映画だが、とにかく心に残る。
戦争ものの映画ってけっこうあるけれど、それらとは異質な作品だと思う。あえて戦争ものっていう雰囲気を出したくないんだなあという感じが伝わってくる。主人公の「すず」というちょっとドジな少女と同じ目線で、戦時の大変さを味わえるように工夫されているみたいだ。
あと最大の特徴は、流行の言葉でいうところの「ゆるい」感じのタッチの絵だ。悲惨な場面も、そういうゆるいタッチで描いてあるのがかえって印象に残る。全体的に、そういうギャップが面白いのかもしれない。
ずらっと並ぶ名前が感動もの
本編もさることながら、エンディングのあとに個人名がずらりと並んで書かれているのが圧巻だ。これは、クラウドファンディングで協力金を払った人たちの名前。ずらっーーーーーと永遠に続くんじゃないかというくらい、流れる。僕は映画の内容以上に、その名前の多さに感動した。これだけの一般の人に支えられて映画ってこれまであったのかなと思わされた。まさしく新時代の映画だろうね。
協力金を払った人は、払っていない人よりも思い入れがだいぶ強いはず。そんな彼らが、またその友人や知人に強く勧めることで、さらにファンが増えて行く。こうやって口コミがどんどん広がっていって、ファンが増え続けたことだろう。
大手の配給会社が莫大な宣伝費を使って広める映画とは違って、庶民目線のすばらしい仕組みだ。テレビや新聞みたいな上から庶民に情報を降り注ぐマスコミとは違って、庶民が支えてミニコミ的にこういう作品を成立させていくって、本当に今どきな感じでいいね!これなら、僕もいつか、映画を作ることができるかもな!笑
平和ってこうやってつくるものかな
反戦メッセージの良い映画はたくさんあるけど、上に書いたように市民がお金を出す事で成立したって言うのが深い意味がある気がするよ。
押し付けられるような平和や反戦メッセージって、何か裏があるんじゃないかと疑ってしまいたくなるけど、こういう庶民からじわじわ広がって行くようなメッセージって本当に大事だと思う。草の根運動ってやつに似ているのかな。
何を信じたら良いのかよくわからない世の中だけど、「この世界の片隅に」みたいに強いメッセージを隠し持った作品に、もっともっと触れて行きたいと思う。
マクドナルドなんて大好きだ!!!
冷静に考えると、ぞっとする見た目の食べ物を出すあの店。油ぎとぎとのポテトや、人口色の怪しい紙に包まれたハンバーガー、どろっとした添加物まみれのソースにつけて食べるナゲット。考えるだけで、本当に体に悪そうだ。
これはマクドナルドに対する、私の印象だ。実におぞましい。あんなもの、なるべく食べない方がいいに決まってる。
でも、結論からいうと、私はマクドナルドのことが好きみたいだ。週に何度も通ってしまう。。。なんて、おろかな。
でも、あのハンバーガーを食べることは月に1、2度くらいかな。食べたら大体の場合に、気分が悪くなり、体もだるくなって動きが鈍くなる(気がする)。でも、つい食べたくなってしまうというアホな性格なようで、気がついたら頼んでしまっている。
基本的に僕にとって、マクドナルドとは、作業スペースだな。100円とかのコーヒーと、パイなどのちょっとしたお菓子を買ってどーんと席に座る。まわりは若い人ばかりだけど、自分もまだ若いので、まあ落ち着いたりする。少し騒がしいのも、嫌いじゃない。
ドトールとかスタバとかも良いのだけれど、値段というより雰囲気がちょっと合わない。安いチェーンなのに、背伸びしている感じの内装やスタッフさんの対応が自分には合わないのかな。どうせ安いチェーンならば、マクドナルドぐらいの騒がしい感じがちょうどいい。
あの手のカフェに行くくらいなら、ちょっとリッチな雰囲気の喫茶店の方が好きだな。きりりと、した気持ちになって、頭もきりりとする気がするんだ。
と話はそれまくり、意味もないようなブログ内容だが、カフェのことをたくさん書いたのはこういうこと。マクドナルドはカフェだ!と私は思っているということだ。
あれはハンバーガー屋と思わない方が気持ちがいい。あそこはハンバーガーも出す、カフェなんだろうな。そう思ったら、もっと好きになった。
それにしても、本当に意味の無い内容すぎてかなしくなってきた。こんなものを書く事に時間を使うなんてなあ。なんで書き始めたのかも忘れてしまったけど、まあいいか。