強くはなれなくても豊かに生きる

むっきーのブログ。心身ともにバランスを崩して、いろいろ駄目になりかけちゃいました。これからはもっとしなやかに、もっとしたたかに生きていこうと、考え方を変革中です。心優しい方々、私の成長を見守っていてください(^^)

僕は僕

 さっき、3月になった。もう今年も6分の1が終わった。やはり年の初めは、過ぎて行くのが駅を飛ばしながら走る快速電車のように早い。何度もこの感覚を味わいながらも、なかなか慣れないあたりが僕の記憶蓄積機能の限界だと感じる。

 

 こんなことを書いておきながらなんだけど、「3月になったから何なの?」って、自分に言ってやりたい。別に月が変わろうが、そんなに僕自身には何も影響しないだろう。僕の人格には2月と特に変わらないだろう。

 

 じゃあ、そんなものを気にしているのは馬鹿なのか。いや、それも違う。社会のなかで生きているならば、そういうことを気にすることも無駄ではない。何かの切り替えに使う事自体は無駄ではないし、むしろ有益かもしれない。

 

 でも、僕が今のようななんとも前身がかゆくなるような思いになってしまっているのはなんでなんだろう。時間にあらがいたいだけなのかなあ。それとも、月の変わり目と言うだけの分かりやすいイベントに乗っかって物事を考えるのがかっこわるいと思ってしまっているのかな。

 

 一番の思いは先ほども書いたように、明日も今日も僕は僕のままなんだから、そんなものにとらわれるのはよそうよということなのかもしれない。そんな切れ目じゃ僕という人間は変えられないものなのだと。

 

 だけど。僕は変わらないといけない。やっと自分の一番の問題点に気がついたのだから。たった月が変わったくらいで変わることはできないけど、何かのきっかけで変わらないといけない。いや、何かのきっかけでとか人任せにしているような所も変えなければいけない。

 

 僕は僕だけど、少しずつつ変えていく必要はある。それも、社会の流れや周囲の人の影響によって変えられるのではなく、自分の意志で変えていかないといけない。必ず。

思い出フェチの害悪

 僕には、あるフェチのようなものがあるようだ。それは、思い出フェチだ。そういうものが一般的にあるのかどうかは知らないが、思い出に異常に執着してしまうのだ。

 

 例えば帰省して地元に帰ると、通っていた中学校や高校、いきつけのファミレスやたこ焼きや、よく遊んだ公園などをくまなく回らなくてはいられなくなるのだ。そして、そこで、当時やっていたことと同じ事をしてみたりして思い出に浸る。こういうことがあったな、ああいうことがあったなと。

 

 さすがに、やらないと死なないほどではないけど、ついやってしまうのだ。それ以外にも、進学や転勤でその街を離れるときも、今日がここを通るのが最後かもしれないとか、ここの風景も変わってしまうかもしれないししっかり目に焼き付けておこうとか考えて、ぐだぐだと景色を眺めてしまう。そして、ちょっと涙を流したりしてみる。

 

 さらには、どこかで買った思い出の品とか、もらった手紙とか、子どもの頃に作った工作なども大事にとっておいてしまう。それらを捨てるなど自分的には論外だ。

 

 まあ、ある程度はそういうことをするのはいいと思うが、異常にやってしまうから問題なのだ。何度も、何度も繰り返す。そういうことに、延べでどれくらい時間を費やしてしまったのだろう。無駄が多すぎるということに、最近気がついたのだ。

 

 思い出を大切にすることは間違っていないとは思う。だけど、思い出に縛られていては自分にとってプラスにならない。だって、僕らは人生を歩んでいるということは、毎日成長していかないといけないのだから。せっかく、一歩先に進もうとしている自分を、無理矢理ぎゅーっと思い出くんによって引き戻させるなんてとんでもない行為だ。自分で、自分の足を引っ張る行為そのものだ。

 

 なんかの歌の歌詞の受け売りだけど、成長して行くためには何かを手放して、新しい何かを手に入れることが大事なんだよね。本当にその通り。その通りだよね。

 

 さあ、過去の思い出はいつかずっと先に思い出す日まで引き出しに閉まっておこう。そして、今は前だけを向こう。僕にとって大事な時期なのだから。

悪役に徹する

 人生の主人公ってたぶん自分だよね。真の意味で自分目線以外になることはできないし。まあ、めちゃくちゃ心の綺麗な人が他人の気持ちを読むとか、なんかの超能力で守護霊に話を聞いたりはできるとかはできるかもしれないけど、そんなのでもさすがにその人の人生をのっとる事はできない。

 

 ということは、結局自分のままで生きて行く訳しかないんだよなあ。当たり前だけど。

 

 でも、こういうことを考えると分からなくなってくる。映画とか小説とかには、だいたい主人公がいて、さらに仲間と悪役が出てくる。ああいう創作物は、現実では複雑怪奇で到底理解できないようなことがらでもパッと目で分かるくらい簡略化して作られているわけだ。だから、良い奴と悪い奴とがびしっとわかれて存在するんよね。じゃあ自分はどの役なんだと思うわけ。どれなんだ???

 

 しかし、実際の世の中ではそんなに単純には分かれていない。そんな画面の中だけの狭い世界であるはずがない。だから、どんな完全な悪役みたいな奴でも必ず何らかの良い面はもっているはずだし、逆にどんなに良い奴みたいな奴でも悪い面は少なからず持っている。僕という人生物語の主人公である僕にも、いい面も悪い面も必ずあるということだ。

 

 すなわち、僕が他の人から良い人と思われていようが、悪い人と思われていようが特に問題ではない。僕は僕であり、良い奴でも悪い奴でもどちらでもあるんだから。勝手に言っておくれという感じ。僕が他の人を見るときも、勝手な視点で相手のことを良い奴悪い奴と決めてしまっていると考えると申し訳ないけど、まあ僕は神様ではないし仕方がないよね。

 

 さて、じゃあ僕はどうするべきか。とにかく僕は、悪役に徹するべきだなあと思っている。

 

 僕のような自分で物事を決められずに特に頭がキレる訳でもないような人間は、良い人役に徹しても面白みがなくて、社会的価値もあまりないような気がするから。と、いうより、ただの弱いやつみたいになると思うんよな。それに、良い人を演じる方が簡単だから、僕なんかだと無意識にそうしてしまう。その結果、特徴もなく存在感もない人間になってしまう気がする。

 

 だから逆に、悪役に徹したいと思う。もちろんガキ大将とかヤクザとかを演じるとかいう訳ではない。必要なときにものを言い、たまには邪魔と思われるような行動もとり、世の中の大多数の意見に流されないような立場をとるようなもののことを言っている。まあ、悪役というより、お邪魔虫ってやつかな。結局はそういうやつが、もっとも世の中にとっては必要なきもするし、自分のためにもなるような気がするんよなあ。

 

 本心ではもちろん良い奴であるんだよ。でも、ちょっといろいろかき回すやつ。それで、結果的にあプラスになればいいなあと思う。

 

 ここまで中二病満開な文章だけど、まあけっこう大事だと思うんだよねえ。うん、僕はただのイエスマンの良いやつにはならないぞ。あえて、難しい方を選んでみたいから。

やりたくないことはやらない人生ってどうよ

 当たり前なのだけど、世の中には自分のやりたくないことも多数存在する。やりたくないことなんだから、できればもちろんやらないにこしたことはない。でも、それでは生きて行けないのがこの世というもの。

 

 例えば、仕事。やらなくてもいいものならば、やりたくないけれど、それだとお金が稼げなくなり生きていけない。だからまずは自分のやりたいと思えるようなことを仕事にしようとする。そして実際にそれで食っている人もいる。でも、やりたいことだけをして金を稼げる人なんて一握りだよね。

 

 例えば、家事もそうか。面倒くさいけど、やらなかったら着る服も無くなるし、部屋も汚くなるし、自炊をするときはしないと外食に金がかかってたまらない。だから、仕方なくというかなんというか、みんな家事をする。

 

 例えば、考えるということもそうかな。考えたり、判断したりするのは大変なことだけれども、そういうのをしないと人生前に進めない。だから、面倒だからと考える事や決めることを放棄する事もできない。

 

 要するにやりたくないことでも、面倒なことでもやらないと生きて行けない。そう、偉そうに書いたけど、これらは全部当たり前。

 

 じゃあ、どうすればいいのかな。仕方なく、しんどいしんどいと言ってやりながら生きていくしかないのかな。いや、そんなんじゃ楽しくないし、生きて行くのが大変すぎる。

 

 でも、すなわち!やらないと生きていけないんだから、やるしかないんだよね〜 だから人間はなんだかんだでなるべく理想と現実を近づける努力をして自分を納得させつつ、やることをこなして成長していくしかないんだよね。僕も、今までいろいろ逃げ回って来たけど、歯を食いしばってやるしかないという場面があるということを知ったよ。そうやって、人間として強くなって行って、自分の理想を実現させていくんだよね。

 

 でも、頑張るためには、自分はどうしたいのかってことをきちんと見極めないといけないと思う。それがないと、ただ目の前の課題を倒すだけのつまらない人生になってしまう。そんなんじゃ、だめだよね。ここまで書いてきたこと全部アホみたいだけど、けっこう大事なのかなあと思ったりする。

 

 やりたくないことにも、なんとかして、ぶつかっていくぞ〜

自分が何者かってマジでわからん

 自分は何者なのか。もしくは、何者になりたいのか。そういうことって考えないようにしようと思ってても考えてしまう。実際何者なんだろうな。

 

 こんなことを考えているのは、久しぶりに朝井リョウ氏の「何者」を読んだから。昨年、同作を原作とした映画も見たけど、そのときは本当に気分が悪くなった。めちゃくちゃ体がどしーんと重くなる感じ。自分の過去と重ねて考えてしまったりして、いろいろとフラッシュバックしてしまうんだろうな。

 

 同作の内容は、ツイッター全盛期に普通の大学生達が就職活動をしているとこうなりましたっていう感じのお話なんだけど、これがとても秀逸なんよなあ。あ、こういうやついるいる〜とか、こんなことあったな〜とかいうことのオンパレード。そして、自分はどのタイプの人間で問題点がどういうところにあるのかというのをマザマザと見せつけられる感じ。

 

 同時期に就活をした人間としては、本当に当時の自分を見ているようで目も当てられないような気持ちになってしまうんよね。僕は就活はなんとか一応うまくいったけど、でも、他の人から見たらこう見えてたんだろうなとか、少しは悪意がある行動もしてしまっていたなあとか、そういうことを思い出してしまう。

 

 それに、一応うまくいったにしても、就活って苦しかったなあ。体力的に大変だったのもあるけど、この映画のように自分が何者なのかとか、社会に本当に必要とされているのかとか考えさせられるのが苦しかった。何をやっているときも、就活のことを考えてしまっていたからなあ。

 

 最近は時期的に街で就活生を見かけるけど、彼らも今まさにそういう状況にぶちあたっているんだろうね。本当に頑張ってほしいよね。

 

 そして、社会人歴をこうやって重ねたから言えることだけど、就活ってやっぱり茶番だったよなって思う。リクナビだかマイナビだかいう就活斡旋の広告サイトに煽られて、志望してもなくても有名な会社を何十社も多い人では百社とか応募して、自分が何をしたいとかではなくただ受かるためにいろいろと上辺だけのことを語り、会社からしても本当か嘘かもわからんような就活生のPRを聞いてパッパと面接で処理していくわけだよね。そんなんで一喜一憂して、学生たちはみんなわけのわからん状況に追い込まれていくんよ。

 

 ああいう就活サイトってけっこう害悪だと思うなあ。まあ、効率的に採用したい会社の立場からしたら良いのは理解できるけど、それを見る学生からしたら振り回されてばかりで利益ってないような気がするんだけどな。でもネット時代の宿命なのかな。

 

 また駄文をだらだらと書いてしまった。本当に書きたかったのは、自分が何者かっていう問いは社会人になってからこそ重要になるのではないかってことかな。

 

 社会人としてどういう職業に就きましたっていうのはいろいろあるだろうけど、それで自分が何者かって確定した気がしつつも、実は職業と自分が何者かってあんまり関係なかったりすることも知っちゃったわけなんよね。

 

 僕は、社会人になってからやっと自分が本当に何をしたいんだろうと考えるようになった。それまでは中高大と全部社会の一般的なレールに乗って来ただけだったけど、社会に出たらそうではなくて道はたくさんあるということを知ることができた。それで、じゃあ、どの道を選ぼうかなと迷っている感じなんよ。

 

 実際に自分が行動できるかどうかは自信がないけど、自分が自分らしく生きていくためには、けっこうな決断をしないといけない気がしている。それがどの決断なのか、まだ自分では確信が持てないから困っているけどね。でも、そろそろいろいろと本格的に動いていこうと思う。

アメリカ人的な明るさっていいよねー

 最近よく感じることというか、まあ当たり前のことなんだけど、明るく振る舞うっていうのはいいことだよね。近ごろアメリカ人など欧米人と接することが多いのでそう思うのかもしれないが、本音はどうであっても明るく話していると、世の中全体が元気になるような気がする。

 

 彼らは初めて会った人とでも昔からの友人のように明るく話す事が多いように感じるし、店員さんとかもダルそうにしながらも馴れ馴れしく接したり、とにかく表情豊かな笑顔をつくることを大切にしているように感じるんよなあ。

 

 とにかく、大きな声で。いつも笑顔で。知らない人とも世間話を交わす。こういうのがアメリカの文化的にそういうものがあると思うけど、めちゃくちゃ大事だなあと思う。日本人もそういうことをしない訳ではないけど、アメリカ人に比べて、身内の人か知らない人かを意識しすぎていて人によって接し方が大幅に変わってしまう気がするんよなあ。そういう過程で、暗いという訳ではないけど、ぎこちなくなってしまうというか。。。

 

 いや、でも、こうやって人種で分類したりするのはダメなことだな。そうではなくてここで書きたいことは、僕自身は、僕が分類した典型的な日本人だなと感じているということ。

 

 根は明るい方だとは思っているけど、人と接するときに変なバリアーを貼ってしまって明るく振る舞えないときがけっこうある。特に初めてある人間とは。でもそういうのって、印象的にはそんなによくないだろうし、相手と仲良くなれるチャンスを失ってしまうような気がしてしまうんよね。

 

 日頃からそういうところを変えていかんとなあと思う。アメリカ人的な明るさをイメージして、大きな声で笑顔で気軽に話しかける。そういうのを自分なりのスタイルでしたら、いろいろもっとうまくいくような気がする。

 

 なんとなくでいいから、そういうのを目指していこうっと。

自然に出た「楽しいか?」の言葉

 ある店にいたときのこと。トイレを済ませて、手を洗おうと洗面台に向かった。すると、流しの部分には小バエが止まっているのがわかった。なんとなく、そのハエに水があたるように手を洗った。水は彼の上に直撃し、気がつくと彼の姿はなくなっていた。

 

 無意識に、こんなくだらない意地悪をしてハエを殺してしまったのか。それとも、自分の意思で殺そうと思ってやったのか。そもそもハエごときかまどうしたとか考える必要もないか。よくわからないが、一瞬でそんなことが頭の中をぐるぐると回った。

 

 そして、僕の口から言葉が出た。「楽しいか?」。まわりには誰もいない。自分だけに響く言葉。発したのも自分、聞いたのも自分。でも、どこからともなく降って来た言葉のように感じた。

 

 無意識で弱い者ををいじめて楽しいのか。俺は何をやっているんだ。

 

 さらに、その枠を超えて、どこからか「こんな人生で楽しいのか」という言葉まで聞こえそうな気がしてしまった。こんな日々で楽しいのか。何かに必死になることなく生きていて楽しいのか。そりゃ、生きる事だけでも必死だけど、せっかく生かされているんだから自分の役割がなにかあるはずだよ。そんなことまで考えてまった。

 

 ハエの人生がなんのためにあるのなんて分からない。というより、そもそも人でもないから人生ではないのかな。じゃあ、僕の人生はなんのためにあるのか。そんなことも、正直わかんないよね。でも、何かしらの意味がありたいと思うから、必死に生きるわけだよね。

 

 でも、人間は動物とは違う。話す事もできれば、考える事もできる。世にまかせて生きるだけではなく、自分たちである程度のことは変えることができる。と、いうことは、少しでも良い世の中になるように、まあそこまで言わなくても少しでも自分の人生が豊かになるように常に努力していかないといけないよね。

 

 こんな事ばかり考えるなんて疲れているのかな。でも、考え続けないと。