思い出フェチの害悪
僕には、あるフェチのようなものがあるようだ。それは、思い出フェチだ。そういうものが一般的にあるのかどうかは知らないが、思い出に異常に執着してしまうのだ。
例えば帰省して地元に帰ると、通っていた中学校や高校、いきつけのファミレスやたこ焼きや、よく遊んだ公園などをくまなく回らなくてはいられなくなるのだ。そして、そこで、当時やっていたことと同じ事をしてみたりして思い出に浸る。こういうことがあったな、ああいうことがあったなと。
さすがに、やらないと死なないほどではないけど、ついやってしまうのだ。それ以外にも、進学や転勤でその街を離れるときも、今日がここを通るのが最後かもしれないとか、ここの風景も変わってしまうかもしれないししっかり目に焼き付けておこうとか考えて、ぐだぐだと景色を眺めてしまう。そして、ちょっと涙を流したりしてみる。
さらには、どこかで買った思い出の品とか、もらった手紙とか、子どもの頃に作った工作なども大事にとっておいてしまう。それらを捨てるなど自分的には論外だ。
まあ、ある程度はそういうことをするのはいいと思うが、異常にやってしまうから問題なのだ。何度も、何度も繰り返す。そういうことに、延べでどれくらい時間を費やしてしまったのだろう。無駄が多すぎるということに、最近気がついたのだ。
思い出を大切にすることは間違っていないとは思う。だけど、思い出に縛られていては自分にとってプラスにならない。だって、僕らは人生を歩んでいるということは、毎日成長していかないといけないのだから。せっかく、一歩先に進もうとしている自分を、無理矢理ぎゅーっと思い出くんによって引き戻させるなんてとんでもない行為だ。自分で、自分の足を引っ張る行為そのものだ。
なんかの歌の歌詞の受け売りだけど、成長して行くためには何かを手放して、新しい何かを手に入れることが大事なんだよね。本当にその通り。その通りだよね。
さあ、過去の思い出はいつかずっと先に思い出す日まで引き出しに閉まっておこう。そして、今は前だけを向こう。僕にとって大事な時期なのだから。