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これからは、しなやかに生きる

会社員むっきーのブログ。仕事で心身ともに駄目になりかけたことも。これからはしなやかに、人生の目標に向かって生きて行きます。心優しい方々、私の成長を見守っていてください(^^)

僕は就活する時期を間違ったのか

 今日は昼間、ちょいと喫茶店に寄った。ガランとベルの音が鳴るか鳴らぬかは忘れたが、そういうイメージの扉を開けて入るタイプのチェーン店だ。空き時間とかにコーヒーを飲む事は多いが、貧乏性の僕がいつも立ち寄るのは大きなMの文字がかかったファストフード店。でも、なんだか今日は少しまともな店に入りたいような、ほんのちょっとフォーマルな気分だった。

 

 そういう店にいくと、周りの人をぐるりと見渡してしまう。人間観察が好みという訳ではないのだが、それが習慣のようなものになっている。

 

 さて見渡してみた。この店がたまたまだろうか。着慣れない真っ黒のスーツに身を包んだ、一目で就活生だと判断できるような人が多い気がした。もうそういう時期なのかな。自分の就活のころどうだったか思い描いてみるが、ぼんやりとかすんだ記憶しかない。今は6月解禁になったはずだから、インターンシップや説明会に行ってきた人たちなのかなと勝手に想像していた。

 

 斜め前の席では、黒スーツに身を包んだ3人組の男性が、愚痴のようにも希望のようにも取れるような会話を繰り返していた。ーーこういう業界に行きたい。でも、この業界には未来がない。どうすれば内定取れるか想像できない。そういう類の会話。聞きたくなくてもつい耳に入ってしまう。

 

 僕が席を立ってトイレに行くと、幅の狭い二人掛けの席に、こちらも就活生らしき女性が一人で座っていた。斜め上から目をやると、手のひらサイズの手帳に細いペンを使って小さい文字をたくさん書き込んでいる様子が分かった。真剣に書き込む表情からは、自分の道は自分で決めてやるぞという気概のようなものが感じ取れる。

 

 みんながそれぞれの将来のために、得体の知れない就活というものに取り組んでいる。なんとも不思議な光景だ。受験勉強にいそしむ学生さんへは微笑ましい気持ちになる私も、就活に取り組む彼らからは微笑ましさなどではなく、健闘を祈るというか、念を送りたくなるようなそんな気持ちになる。

 

 さて、そんな姿を見て自分の当時を考える。あのころの僕は、格好付けているのか怖がっているのか、「就活なんてくだらない」と友人たちと話していたような気がする。でも、就活をするという流れから外れて別の道を選ぶような決意もない僕は、就活解禁の日に大手の就活サイトに登録して、説明会にもせっせと通うような人間だった。自分の本当にやりたいことが何かなんて、わからないまま、突き進んでいたように思う。

 

 そんな気持ちで臨んだ就活だったが、なぜだか分からないが、なんとなく成功して、良い企業と言われるところに入る事ができて今にいたっている。でも。いや、だからこそ、いろいろな気持ちが残る。

 

 本当にあの時期に就活をして、会社員になる必要があったのか。もっと自分がしたいことをいろいろと考えるべきではなかったか。今の仕事は本当にしたい仕事たったのか。

 

 そういうことをしっかり考えなかった結果が、今の何も暗闇をさまよっているような僕を生み出したように思う。いや、僕のような人間は一度荒波に飲まれなければ、そのようなことも考えなかったかもしれない。そう言う意味では挑戦したこと自体は無駄ではなかったと言えるかもしれないが。

 

 就活をする時期は間違ったかもしれないが、やったこと自体は今の自分にとっては何だかんだいい結果を出しているのかしれないな。ということは、そんな就活がどうたらとか過去のことを振り返るのではなく、これからどうするかを考えるべきだよね。真剣にね。

 

 今の仕事をずっと続けるか。転職するか。夢見ていた起業をするか。それかもっとデカい夢だったことに挑戦するか。本当に数えきれないほどいろいろと選択肢はあるけれど、今回は自分でしっかりと考えて決めないといけないのだと思う。今回こそは、絶対に後悔しないように。

歯車なんかになりたくないけどさ...

 世の中で一番恐ろしい事って自分が社会に必要とされていないんじゃないかと感じることだと思う。僕も半ニート的生活をしていたことがあるのだが、社会との関わりは金を使うことや友達と会うことくらいしかなく、自分の役割ってなんなんだろうなと考えてしまうことが多くなる。自分って社会に必要とされていないのかな。そう考えてしまうこともある。

 

 社会がこうやってぐるぐる回って、いつもさまざまな物が生み出されたり、サービスが提供されたり、何かの研究が行われたり、物事が決定されたりしているということは、一人一人が小さな歯車となって世の中がなりたっているということ。そのなかでは、偉そうな政治家の先生も、優秀なビジネスマンも、八百屋のおじさんも、グラビアアイドルの巨乳美女も、みんな歯車の一員。誰が、偉いとか、偉くないとかそういうことは関係なくみんなで構成しているんだよね。

 

 でもね。その歯車の一員になりきれてないように見える人もいるということも事実。それがどういう人かは詳しく書くのはやめるけど、一見するとそういう歯車ではないような人々っているよね。その人たちには、本当にさまざまな事情があってそうなっているわけだ。

 

 しかし、その人たちは本当に歯車になりきれていないのか。必要とされていないのか。たぶん、違うと思う。それぞれ生まれて来た以上、なにかしらの役割を持っているはずなんよね。本人も気がついていないかもしれないけど、必ず何かあるはず。だから、どんな人間でも自信を持って生きていくべきだと思うんよなあ。

 

 色々書いたけど、なんでこんなことを考えているんだろう。自分でもよくわかないけど、ダメな自分をなっとくさせようとしているだけなのかもしれない。でも、強者になったと勘違いして、その歯車になりきれてなさそうな人を見下したりするような人間になるよりはマシなんじゃないかとも思う。

 

 考えても何も生まれないんだけど、どうしてもいろいろ考えてしまうんよな。まだまだ人生は長く続くと思うけど、人間とは何かとかいう面倒くさい事をずっと考えて生きていきたいものだよね。

当たり前だけど、一番大事なもの

  とある夕方。建物から出ると、いきなり冷たい風にぶち当たった。なんだか、異常に寒い。そんなに気温は低くないはずなのに。変だなと思いつつ、からっぽの胃袋を慰めるために定食屋へ。いつもなら一度も箸を置くことなく食べ終わってしまうのに、異常と言っていいほど箸が進まない。結局、半人前ほど残してしまった。こいつはおかしいぞ。案の定、その夜、高熱が出た。

 

  高熱ってどのくらいあったの?と聴きたくなる人が多いということを経験上感じるが、独り身の男がそうそう体温計なんて持ってはいない。実際に何度あったかは自分でもわからない。でも歩くと視界が霞み、一度ベッドに入ると物を取りに外に出ようにも体が全く言うことをきかない。その晩は結局夢にうなされながら、1時間おきくらいに目が覚めては時計を見て、水を飲みというのを繰り返していた。

 

  ようやく朝が来たと思っても、まだまだ熱がくすぶっていた。まだ一端の人間として動けるほどの状態じゃない。その日は各所に連絡を入れ、全てを放り出して寝ることにした。今度は夜と違って、長いこと寝られた。

 

  次に目を覚ましたのが昼過ぎ。重りがたくさん外れたようなに体が軽い。これはチャンスだ。重大な決意をするかのように、病院に行く決心をした。軽く着替えて、近くの病院へ。看護師から、鼻に長い綿棒のようなものを入れられて、ぐりぐり回される検査を受けた。お医者に言われたのは、「インフルエンザの反応は出ていませんが、限りなくそれに近いものでしょう」。よく分からない感情のまま薬をもらい帰った。

 

  と、先日のことをダイジェストで書いてみたけど、だからなんだという感じだろうね。僕としては久しぶりの高熱だったのでびびったというのとを書きたかっただけ。

 

 熱というのはすごい。本当に動けなくなる。普段比較的体は健康なので、風邪を引くこともそんなにない。だから、病気で入院している人や難病をかかえている人の状態を気持ちでは理解できても、実際に自分のこととして理解することはなかなかできない。こうやって自分が高熱を出してみて改めて、健康でないことの怖さを感じることができた。子供みたいだが、そういうことを考えていた。

 

  体の健康も、心の健康も、普段から注意しておかないといけない。夢を叶えたり、出世したりすることも大事かもしれないけど、結局は健康には変えられない。高熱くんが、そんな当たり前のことを教えに来てくれたのでした。

自分の失い方

 先日、ふと気がついた。自分は相手に合わせすぎなんじゃないかと。そういう自覚は前からないことはなかったが、この前初めて現実的に気がついた。

 

 友人とバーで飲んでいたときのこと。その人が話していることに、つい話を合わせている自分がいた。内容も忘れてしまったくらい、どうってことのない話なのだが、そう思っていもいないことを、その人に合わせるという意味だけでつい話していた。

 

 これだけ書いても、自分でもよくわからにけど、あのときは本当にはっとしたんだ。ああ、こんな自分は嫌いだなと。

 

 もともと私は、周囲に好かれたいだの、リーダー的な存在でありたいだの考えるタイプの人間だったと思う。そうならば、周りに合わせるよりも自分らしくあった方が良いはずなのだが、どうしたことか方向を誤って周りに合わせすぎるようになっていた。

 

 特に、自分が不利な状況になったときはこういう傾向が顕著なように感じる。そういうときこそ、自分らしさを出すべきなんだけどな。

 

今回学んだ教訓は以下のようなものだ。

①周りの人すべてに好かれようと思いすぎない。一部の人に認められたらいい。

②相手の話に合わせるような人間と話していても面白くないだろ。

③八方美人なんかより、本音を話す人の方が信頼される。

 

 上の文章とも関連がなくて、私の文章力の無さを露呈するような内容になっているが、こういうことを気をつけていかないとなと思う。

 

 承認欲求とやらをこじらせた結果、私のような失敗が起きるんだろうな。これにやっと気がついたことを気に、相手に流されない自分というものを確立するために頑張りたい。それにしても、まだまだ学べることって多いんだなあ。

【映画】「海賊と呼ばれた男」 〜働く我々へのエールか

映画

 何のために私たちは働いているんだろうか。映画「海賊と呼ばれた男」を観て、そういうことを考えさせられた。飯を食うためだけに働くのか。そうではなく、何かもっと大きなもののために働くのか。働くことについていつも考えている今の自分には、良い刺激になった。

 

 主人公は出光興産の創業者がモデル。同作中では北九州門司で小さな石油会社を起こした国岡が、突拍子もないもないアイデアの連続で急成長を果たす。戦争の混乱で会社はぼろぼろになりながらも、完全日本資本企業の誇りを胸に、御用組織や海外メジャーを渡り合って行くというストーリーだ。原作の同名小説のストーリーをよりコンパクトに、わかりやすくしているように感じた。

 

 同映画のメッセージも、外国に負けないように頑張るぞ!というような、単純なストーリーにも思えなくもないが、恐らくそういうことではないように感じる。国岡が、どんな理想を掲げ、どんな思いで動き、どんな姿勢で部下に接していたのか。そういうことを示して、現代の働く世代にエールを送っているように思えるのだ。

 

 石油会社はただの私企業であると言えばそのままだが、と同時に、国の経済を支えるもっとも重要なものを人々に供給する尊い仕事をしているともいえる。どんな仕事でもそうだろう。ただの薄汚い金儲けだと言える仕事も無いことはないけど、どこかにそういう、使命みたいなやつがあるはずだ。

 

 僕は自分の仕事にそんなに誇りをもたずに、ただなんとなくこなしていた気がする。でも、そんな気持ちだったから、うまくいかずに怒られてばかりで、自分も成長しなかったんだろうと思う。自分の仕事の大切さをどこかで見出して、お客として待ってくれている人たちのために、自分が何をなせるのか。そういう姿勢で考えていたらもっとモチベーションも上がる事ができるはずだ。

 

 主人公の国岡という男も、ただ自分の会社を大きくしたい、金儲けしたいという気持ちだけではなかったように思う。自分なりの理想を掲げ、それを自分の会社を大きくする事で達成しようとしていた。そんな自分について来てくれる部下達にも、特別な愛情を注いでいた。ただの金儲けではなく、社会に仕えているという気持ちがあったから、そういう姿勢になっていたのだろうと感じる。

 

 それにしても、今の世の中には、国岡のようについて行きたくなるような社長ってどのくらいいるのだろうか。少なくとも僕は自分の会社の社長なんて、別に尊敬してはいないし、そもそもどんな人柄なのかもよく知らない。よその会社でもそんなもんだろうか。

 

 自分が負わされる責任ばかりに目をやり、やれ減収がどうたらとか、やれコンプライアンスだ、やれ株価がと、そんなことばかりしか気にしていない社長が多い気がする。もちろん、国岡の時代のように経済成長抜群のイケイケの時代とは、まったく正反対の時代だから仕方ないとも思うが。それにしても、肝っ玉が小さいリーダーばかりに感じる。

 

 かといって、自分がそんなリーダーになれるかと聞かれたらまったく自信がないのも事実だ。そもそもそういう時代ではないというのとか。これからはリーダーというよりも、一人一人が少しずつ社会を良くしたいという理想を持つ事が大事なのかもしれない。どうせ今更経済成長なんてできないんだから、少しでも住みやすい社会をつくろうと考えながら、働き方改革など働く一人一人が考えて行く事が大事だと思う。

 

 だらだら働いても、肝っ玉の小さいリーダー達に食いつぶされるだけだ。そうではなくて、この仕事を何のためにしているのかと考えながら、働いていたい。

 

  この映画を観て、そういう働く姿勢のようなことを深く考えさせられた。

形のない夢でも、酒に流したら勿体無いでしょ。

 どんな酒も、一人で飲んだらうまくない。一時心を鎮めたいときや、すべてを投げ出したいときは一人でグラスを持つこともあるが、そんなことをしても結局はむなしいだけ。対して味も感じない。いつもそうだ。あくまで私の場合だが。

 

 先日、大学生のころから仲良くしている友人と飲み歩いてきた。ただの友人というより、古き同士のようなものだ。こういう奴と飲むときは、一人で飲むときの何千倍かうまいように感じる。だから、酒は誰かと飲むに限る。

 

 奴と会ったのは数ヶ月ぶりといったところだが、例によって将来のことを語り合った。しかし、その将来の話の前に出てくる話はもちろん、今の会社への愚痴。話し始めたら、深夜のだらだら続くバラエティ番組のようにくだらない内容が延々と出て来てしまう。これはこれで楽しいが、そんなん話すために会ったんじゃないだろ。「それより、これから何をするつもりなん」とどちらともなく切り出した。

 

 「3年に以内には転職をする」「いつかは自分の会社を始めたい」「内容は決まっていなけど達成感のあることをやりたい」。互いに将来のことを語るが、出てくる話はどれもふわふわしていて形になっていない。学生のころ話した、「将来は自分たちの手で何かおもしろいことをやろうぜ」という枠からはまったく出ることができていない。

 

 そもそも、二人とも学生のころ志望した業界にそれぞれ入っている。それもビッグな会社に。でも、その会社について不満と不安が募っていき、やっぱり何か自分たちの力でやってみたいと思ってしまう。飽きっぽいというべきか、それともそういうことに向いているということだろうか。

 

 次の仕事は、もっと堅い仕事にしようと思うと奴が言うと、私は「そんな守りに入ってどうする」は言った。私が「地元に帰ってバーでも開きたい」と言うと、「そんなのは年寄りになってからすればいいだろ」とすかさず突っ込みを入れられた。

 

 互いにやりたいことは具体的に決まってはいないが、やはり守りに入ったり、型にはまったりせずに、自分たちの力で何かをやらないという思いであふれている。そしてそれぞれがその思いを忘れそうになっても、互いに諭し合うことで若い思いを自然と保とうとしているのだ。

 

 その晩は結局3軒はしごした。10杯くらい飲んだだろうか。ほろ酔いと、泥酔の間といったぐらいの酒の周り。自動改札に半ば寄りかかるようにICカードを振りかざした。電車の中でもずっと昔話と、将来の話が尽きなかった。ずっと笑っていたが、たまに真剣な顔になり何をしようかと唸り合った。

 

 また飲もうなと言って、互いの家路につく。奴のいつも通りの大股で歩く後ろ姿を見つつ、将来の話は酒の席だけのもので終わせないぞと、頭の片隅で決心した。

昨日の自分と、今日の自分って同じ人なのかなあ

 昨日の自分と今日の自分は何か変わっているのだろうか。そういうことを日々考えてしまう。多くの場合、変わってなんかいないよね。そんな一日で変わるようなもんでもないよね。

 

 でも、そういうことを考えていないと不安になる自分がいる。昨日よりも成長していないなら、ただ一日を無駄にしただけではないのかと思ってしまうからだ。何か成長していないといけないという、強迫観念みたいなやつにも負われ続けている気もする。

 

 単調な日々が怖いというのもある。かといって、激動の毎日だったら考え事をする暇もなくなってしまうので、後々変な後悔が残ったりもする。

 

 ただ日々が意味も無く過ぎて行くのがいやだから、こうやってブログを書くなどして記録を残してるけど、どれもこれも上辺ばかりの言葉になってしまい、書いていて本当に意味があるのだろうかと考えてしまったりもする。

 

 かといって、その日起こったエピソードや過去の経歴とかを具体的に書くと、いろいろと突っ込まれたり読んでほしくなかった誰かに読まれてしまわないだろうかという、変な恐怖感に包まれる。

 

  そういう緩く弱い気持ちで書いているこのブログ。それでも、上にも書いたように自分の気持ちを記録する点ではそれなりの意味をなしているように感じる。過去のものを読み返すと、そのころの自分の気持ちを思い出す事ができないことはないからだ。

 

 そんなときに、あ、自分の考えって短い期間でも変わる事があるんだ、と感じさせられるときがある。それが成長かどうかはわからないけど、日々変わっては来ているんだな。そう思うと少し、安心する。

 

 記録して行かないと、ちょっとした気持ちや考えの変化なんて、どんどん流れていってしまう。そうせず、それらを精査する上で、少しでも自分の力にしていけたらなと感じる。

 

 無駄な事なんてなんもないんだろうな。どんな単調な日々でも、激動の日々でも。そう信じて、自分の残像を残していきたい。