強くはなれなくても豊かに生きる

むっきーのブログ。心身ともにバランスを崩して、いろいろ駄目になりかけちゃいました。これからはもっとしなやかに、もっとしたたかに生きていこうと、考え方を変革中です。心優しい方々、私の成長を見守っていてください(^^)

後悔はしたくないから

  たとえば、生まれた場所や時代や環境がありえないほど恵まれていて、生まれてから何も学ぶ必要がなく、何も働くことがなく、何もせずにただぼーっと過ごしているだけでいいとする。それだったら、私はただぼーっとした毎日を過ごすだけなのかな。

 

  たとえば、ただぼーっとしているだけで、周りのひとがにこにこ笑っていて受け入れてくれる世の中だったら、私はただぼーっとしているのかな。

 

  こんなことはありえないだろうし、わざわざ考える必要もないとは思う。

 

  けど、生きる目的を知らずに生きているっていうのも、これに近いことなのかなと最近思うようになった。正確には、生きる目的を「知らず」ではなく、生きる目的を「決めず」だと思うけどね。

 

  自分は恵まれていると言われるほどではないにせよ、そこそこの所得の平凡な家に生まれて、ぬくぬくと生きてきた。普通に高校大学と卒業させてもらって、普通に就職した。けど、これってどこも自分で決めてないと思うんよなあ。

 

  さすがに入る会社や大学は、自分で受けて、受かったので、少しは意思は働いているにしても結局は相手の基準なんよな。入れてくださったことは、大変ありがたいにせよ、それほど本気の覚悟があるわけでもないため、仕事はしんどいと思うことばっかだし。

 

  こういうことを書くと、若いからだと笑われるんだろうけど、自分では本気で悩んでるんよね。本当に、このままで良いとは思えないんよな。

 

  一人の人間として生きているからには、何かしら役割が与えられていると思うんです。だから、誰が他の人の真似をしたような、そしてみんなと一緒のような生き方に甘んじてはいけないと思ってしまう。でも、こう思うのも傲慢なんかな?

 

  よくわからんくなってきたけど、もっと本気で生きんといかんなと思う。本気で自分はこの人生で何をやり遂げるのか、決めんといかんな。そのためにも、もっと大胆に、いろいろと、チャレンジしていこうかな。

 

  こんなん自分で書いてても恥ずかしくなるけど、やっぱり、ちゃんと向き合わんといかんと思うんよね。後悔はしたくないからね。

大阪人っていうのはいったい何なんだ

 さあ、大阪シリーズ第二弾。久しぶりに大阪ミナミに行ったので感じたことをつらつらと。

 

大阪弁ってすごすぎ

 いっつも思うけど、大阪弁ってすごすぎ。キャッチの人たちの声の掛け方もすごい、どんどん引き込まれて行く。店で出会ったおばちゃんのパワーもすごい。もう「はい、ついていきます!」って言わないといけないなと思うくらいの吸引力。それに大阪の人同士の世間話なんて聞いていただけでも面白い。

 

 自分も大阪近辺に住んでいたことがあるので、聞き慣れていないわけではないけど、久しぶりにしっかりと聞くとすごいよなあ。全体的な大阪人っていうより、ミナミといわれるところにいる大阪人の話す大阪弁がすごいんよなあ。たぶん。

 

 もう、あれで一つの別の言語って感じなんよなあ。イントネーションというか、リズムというか、話の流れというか、すべてがまねできないんよなあ。聞いていて歌みたいなんよなあ。テレビに出てる大阪芸人が話しているようなわざとらしいやつともまた違う。京都や神戸の人の話し方とも違う。よく説明できんけど、聞いてて面白いんよなあ。

 

あれは一つの民族なのかも

 言葉だけでなくて、発想力というか、考え方?みたいなやつもすごいのかもしれんなあ。大阪人って、一つの民族みたいなもんなのかもね。(この前書いた民族学博物館の記事に引きずられているけど笑)

 

 ちょっと褒めすぎました。ですが、ああいう方言というか言葉って大切にせんといかんよね。地方によって話し方が違うのは、それぞれが何かしらの意味があってのことだしね。大阪みたいに元々話す人口の多い方言は残りやすいけど、もともと人口の少ない地域や劣等感をもっている地域の方言ってどんどん減っていくんだろうね。

 

 そんなのは、ちょっとさみしい。やっぱりなんとかして残していかんといかんのやなあ。前回の記事とけっきょくは同じような結末になってしまいましたとさ。

 

 けど、やっぱりとにかく言いたい事は大阪は面白いなということ。東京一極集中はさけられないけど、せめて大阪くらいは頑張ってほしいなと思うのでした。

クリスマスって誰のもの?

 メリークリスマス! きのう、クリスマスイブはごちそうを食べたり、大切な人と過ごしたり、皆さんそれぞれ楽しくすごしたことでしょう。僕もごちそう食べましたよ!たぶん! イブに限らず、クリスマスの時期の街の明るい雰囲気が大好きなので、最近はなんだかわくわくしていた。でも、それと同時に、得体の知れない違和感みたいなものも感じてしまうんよなあ。

 

 もともとはキリスト教のお祝いであるクリスマス。でも、ここまで世間一般で広まると、キリスト教だけでなく、季節の行事みたいなものになるんだろうね。さらには、カップルというか恋人達にとってはとても大事な日であるという思い込みみたいなやつに世間は支配されてるけど、それってなんだかなあという感じになる。

 

 そもそも誰が決めたのかな? と、いうより、なんでイエスキリストの誕生日が、カップルにとって大切な日なのかな? ようわからんなあ。アメリカの映画とかでもクリスマスイブは恋人とすごさないといけないわね!とか言ってるから日本だけの習慣でないことはわかる。まあ、たんにいいムードだからかなあ。

 

 カップルで幸せに過ごしている人はまあ楽しんでいるようだからいいとして、それ以外の人にとってはあまり喜ばしくないものであるみたいよね。下にリンクを貼ったような、クリスマス粉砕せよというデモとか、「クリスマス滅びろ」ってツイートする人とか過激な行動をとる人もたくさんいる。

「クリスマスを粉砕せよ!」渋谷でデモ 主催者が語る、そのオソロシイ野望

 

 確かに気持ちは分からなくもないけど、嫉妬でそんな過激な事を言わないでも、、、と思ったりする。

 

 一つ気になるのは、キリスト教を信じる人にとってクリスマスはとても大事なものであるんだから、それを踏みにじるようなことを言ってはいけないんじゃないかなということ。かたいことを言うのは嫌だけど、宗教も人種も習慣もどれもこれも多様性がある時代だからこそ、そういうものをいうときはほんの少し気をつけた方がいいと思うのです。

 

 クリスマスの問題では、傷つくとかあんまり関係ないかもしれんけどさ! けど、世界中で宗教が原因でいろいろなテロが起こっているし、やっぱりその辺の宗教観っていうのをもっと持つようにならんとなあと思うなあ。

 

 クリスマスって誰のものなんだろうなあ。たぶん、正解は、みんなのものってやつかな(笑) それぞれが、それぞれの形で楽しめばいいんよね。宗教的に関係がある人も、無い人も、カップルも、ぼっちも! 嫉妬したり、気に食わんとか言っても、仕方がないもんねー

 

 まあ、自分もこんなぐだぐだ考えんで、素直に祝って楽しまないといけないなと思ったのでした。よいしょ。

人間の種類ってたくさんありすぎ〜

久しぶりの大阪

 ちょっと前のことだが、久しぶりに大阪に行く機会があったのでそのときに感じたことを何回かに分けて書きたいと思う。

 

 今回初めて万博記念公園にまともに行った。あの有名な太陽の塔のあるところ。あいつをすぐ下から見上げてみた。やっぱりすごい。なんたる意味不明さ。あのなんとも言えない姿に多くの人たちが感動した。いや、感動というか、本当に意味不明すぎて打ちのめされてきたのだ。やっぱり意味不明なものって尊い。

 

民族学博物館に行って来た

 と、これは本題ではない。万博公園内にある、以前から行ってみたいと思っていた国立民族学博物館大学共同利用機関法人 人間文化研究機構|国立民族学博物館)、通称みんぱくに行って来た。そんなにメジャーなスポットではないのだけれど、学生時代にお世話になった教授から一回行ってみなさいと何年も前から言われていたので足を運んでみたのだ。

 

   ここは民族学の研究をする拠点であり、また世界中の民族に関する展示がある巨大なミュージアムみたいなところ。入場料は420円とリーズナブルだ。

 

 入るとまずオセアニア地方の民族に関する展示が目に飛び込んでくる。島々で生きてきた人々の独特の服や、大きな船、使っていた道具などが山のように展示されている。山のようにという、安直な表現をしてみたけど、本当にアホみたいにいっぱい展示されていた。よくこんなに集めたなあと感心してしまった。特に、もろそうな船でどのように海を渡って来たのかを解説したビデオや、宗教がどのように移り変わって来たのかなどの展示が目を引いた。

 

 いやいや、こんな風に書いていったらキリがない。まあ、要するに、同じようにアジア、アフリカ、ヨーロッパ各地方に関する展示が延々と続く。ちゃんと見て行ったら平気で何日も潰せそうな感じだ。

 

絶対にアフリカに行ってみたくなった

 その中でも、一番おもしろかったのが、アフリカのゾーン。特に、ザンビアの民族が仮面をかぶって踊る葬送儀礼「ニャウ」というものを紹介した展示。死者の霊を弔う役割のあるダンスらしいけど、その得体の知れなさがとてもいい。うまいこと説明できないので、以下を参照してください〜(ニャウとニャウ・ヨレンバ)。

 

 展示によるとその儀礼によって男たち、女たち、子どもたちが自分たちの役割を認識するんだって。仮面をかぶって踊るのは男たちだけど、彼らは自分たちが踊っている事は完全に隠す。そして女たちは、うすうす男が踊っていることを知っているが、知らないふりをして盛り上げる。子ども達はあれを正体不明生物が踊っていると信じるんだと。(ちょっと記憶があいまいだけど)

 

 そういうのを経て、それぞれが自分の役割を自覚する。男とは、女とは、大人とは、、、とか。日本でもこういう役割のある行事ってあるんだろうけど、あまり思いつかないな。なんか知らんけど、この展示がとても面白かったなあ。吉田憲司教授という方が監修している展示だったけど、この先生自体も踊ったり、仮面をつくることができるって書いてあって、そのあたりが興味深かったのかも。やっぱり、研究したり専門的に語るためには、自分もそのなかに入って行って一緒に染まって、一体化しないとダメなんだよなあ。

 

 と、自分の仕事に対する姿勢にも生かせそうに教訓を得ることができたのでした〜 それにしても、アフリカの展示はいろいろと面白かったな。まだ行った事ないけど、若いうちにアフリカに行こうと決意しました。

 

民族学ってたぶんとても大事

 さてさて、いろいろ書いてきましたが、民族学博物館に行って感じた事は、民族学ってたぶんとても奥深くて、そして大事だなということ。日本に関する展示のところにも行ったけど、日本人の自分でも知らないものばかりが置かれていた。外国の人と一緒にいって説明してよ〜と言われても、正直自分はほとんど説明できないだろうな。

 

 自分の民族を含めて、世界各地の民族というか慣習や生き方について、もっと知らないといかんよね。何もかもグローバル化と称する欧米化してしまっている世界。だけど、もっとそれぞれの民族のもつものを大事にして、それぞれの優れた点を互いに生かしていかないと、人類も長続きしない気がするんよな。

 

 人間なんて基本的にそんなに優れた生き物ではないんだろうけど、それぞれが長年蓄積してきた知恵を出し合っていったら、もうすこしだけはこの世の中は良くなるんだろうと思うんよなあ。

 

 そういう意味でも、ああいうすばらしい展示をしている民族学博物館には頑張ってほしいと思いました。というか、あそこで研究してみたいとさえ思いました(半ば本気で笑) では〜

心に温泉をつくりたい!

  週末は久しぶりに有名温泉地に行ってきた。温泉ってやっぱりすごいなあ。

 

  お湯が健康に良いとかそういうことは正直言って、実感したことがない。でも、温泉のあの雰囲気って本当に人を元気にすることができるんよなあ。

 

   湯に入っているみんなは、社会生活で背負っている肩の荷が一気に降りた時のような安堵の表情。そんなんを見て、いっしょに、極楽極楽とつぶやいてみたらなんか元気になれる気がする。

 

  普段、つらい気持ちになることも多いけど、そういう時は温泉に入ったときのような、あの気持ちを思い出して自分自身を癒せたらいいな。

 

  イライラしてばかりだと自分が損すると思うので、いつでもどこか自分だけの癒しをどこかに持ちながら生きていきたいと思う。

 

  心の中に、温泉地をつくらないとね!

フードコートで勉強できる人間は強い。

  先日、時間があったので某ショッピングセンターのフードコートに行った。別にお腹がすいていた訳ではないけど、あそこは暇つぶしにはもってこいだと勝手に思い込んでいる。お腹がすいたら、ファストフードから中華、うどん、和食までさまざまなものを気軽にいただける。そして、長い時間いてもいても基本的には怒られないし、気まずくもない。なんとなく居心地の良い場所だ。

 

 この日はお腹はすいていなかった。でも、いろいろな店から漂ってくる匂いが僕を誘惑してくる。結局、ファストフード店でバーガーセットを買ってしまった。なんとなくにおいが苦手だけど、たまに食べるとあの邪悪な味がなんとも言えない感じで体にしみ渡るのが快感に感じてしまう。

 

 さて、前置きはこのくらいにして。私はパソコンを開いてちょっとした作業をしていた。でも集中力がキレて来たので、周りを見渡してみた。すると、勉強に取り組んでいる人が多い事に気がついた。

 

 一番多かったのは勉強のようなものをしている中高生や学生さんだった。1人で黙々と問題を解いているような女子高生がいると思いきや、参考書を開きながらもきゃっきゃと雑談に花を咲かせる集団もいた。辞書のように分厚い本を読みながら、パソコンでレポートのようなものを打っている大学生のような人もいた。

 

 こういう光景を見ると、自分の過去と重ね合わせてしまう。僕は中高生時代はフードコートで勉強したことはなかったが、友人と一緒に図書館やベローチェのようなカフェに足を運んで自習をしたことはあった。勉強をしている自分て偉いなあという気分だけで満足して、実際には勉強をするのでもなくかといって、遊ぶでもないというような中途半端な時間を送っていたような気がする。やっぱり集中力が著しくなかったようだ。

 

 今思うとなると、自分は本当に集中力のない人間だった気がする。でも、高校受験のときは、スパルタ塾で洗脳されていたので、志望校に受からなかったら死ぬんだくらいに思っていたため、死ぬ程勉強した。それこそ一日中勉強して、寝る時間以外は勉強していた気がする。ちょいとプレッシャーで精神的におかしくなりかけたこともあったが、なんとか努力を継続し、そこそこ良いと言われる高校に合格する事ができた。今思うと、あの頃の自分は、勤勉少年という点ではとても美しかった気がする。

 

 しかし、そのあとが問題だった。合格することがほとんどの目標だった僕は、高校に入学すると一気に気が抜けてしまった。もう勉強なんていっさいしなかった。というより、もう脳みそ君が勉強自体を拒否してしまったようで、授業も30%くらいの話しか聞いていなかったし、宿題もなんとか形にする程度にしかしなかった。そして、テストではもちろん成績が悪く、学年で下から何番目かとかいうことも珍しくなかった。

 

 2年生くらいになると、周りも勉強しなくなって来たせいか、再開争いをするほど酷い成績ではなかったが、ずっと低迷したままだった。そして、そのまま大学受験に突入。形上は勉強ことができていたが、たぶん脳みそは停止していたんだろう。まったくもって行きたかった大学には合格できず、無事浪人が決まった。そして浪人の期間でも、まあそれなりには勉強したが、高校受験のときのような頑張りは発動する事ができず、一応志望校だった某トップ大学にはかすりもせず、そこそこの大学にしか合格できなかった。

 

 と、話が大幅に脱線したけど、フードコートでこんなことを思い出していた。頭が悪いとかではなく、勉強を取り組む事ができるかどうかの問題なんだよなあ。とりあえず僕は、自分が嫌と思ったものにはとことん取り組めなくなる脳みそのようだ。これに気がついたのは本当に社会人になってからだ。

 

 苦手意識や嫌だなと思うことは当然人間誰しもあるけど、あとはそれから逃げるか、それとも克服するために立ち向かうかということなんだよな。それができない僕は本当に弱い。だから、最近は苦手なものを苦手と思う事をやめようという思考に変わって来た。立ち向かうのってなかなか難しいから、もうそもそも苦手ではないんだと自分に言い聞かせるようにするわ。自分に嘘をつくのは嫌だけど、でも、逃げないための作戦という事で許されると思う。

 

 まあ、それに、苦手と思っている大概のことは、下らん思い込みに過ぎない事が多いと思うんよね。別にそれをしたからといって死ぬ訳でもないんだし、もしそれに失敗しても死ぬ訳ではないし、上司や世間から怒られても多くの場合死ぬ訳ではないんだし、苦手という意識はやらないための言い訳に過ぎなかったんよね。ああ、恥ずかしい。

 

 と、いろいろ書いて来たけど、僕の思ったことは、フードコートで勉強できる人間は強いということ。あんな食べものの誘惑とか、子どもの大声とか、いちゃいちゃカップルの見せつけ行為とか、気が散る材料がたくさんある中で、集中して本当の意味で勉強できている人は、本当に精神力が強い。たぶん受験だけでなく、社会に出てからもやっていけるんだろうな。たぶんその人達は、自分の中で何か明確な目標があるはず。

 

 それがちゃんと描けてるから、ああやって集中できるんだろうね。すごいね。それに比べて僕は。。。

 

 ということで、「苦手意識は、やらないためのただの良い訳だ」、「明確な目標を持たないといけない」という二つの事を、フードコートにいる学生さんから学んだという話でした。ありがとう。

誰かの評価なんて基本間違っていると思う

 なんだか世間って冷たすぎない?特に芸能人関係のニュースに関してってさ。

 

 ノンスタイルの井上さんが当て逃げをしたっていう問題(以下リンク)を見ていると、なんだかいたたまれなくなる。もちろん、当てただけでなくて逃げたという事は、この人が完全に悪いんだけどさ。でも、なあ。そこまで袋だたきにして、ニュースで何回でも言う話とは思えないんよな。

 news.yahoo.co.jp

 ほんの少しでも失敗をしたらいかんということなのかなあ。それともテレビに出ている人は何かしら失敗をしたら叩かれまくって当然ということかなあ。下にリンクを貼ったベッキーのときもそうだけどさ。

news.yahoo.co.jp

 悪いと決めた人間には、もう集中攻撃をしてこてんぱんにするのってどうかと思うんよ。まあ、こんなことを思うのは、たぶん自分がいつこの立場になるか分からないという変な危機感があるからなのかもしれないな。

 

 別に何か犯罪をしたわけではないけど、人間いつ失敗するかわからないわけで。だれでも起こりうる事なんよ。それを圧倒的なパワーで攻撃し続けるのってどうなのかなあ。

 

 事件とかの報道もそうだけど、やり過ぎな気がするんよな。一度犯罪を起こした人間、不倫とか倫理的にやばいことをした人間へは、もう人間と思わなくていいぞというくらいバッシングするというか、うーん、まあニュースとして面白かったらそれでいいんですかね。

 

 わからないけど、自分はもっと大らかな社会になってほしいと思うわけなんよ。さすがに犯罪に寛容な社会がいいとか、そんなことはいっさい思っていないけど、もっとね、優しさに包まれた世の中になってほしいんよなあ。

 

 会社の中でもそうだけど、ぎすぎすし過ぎていると思う。すぐに仕事ができる奴と、仕事ができない奴とに、分類される。そしてできない奴はこてんぱんにする。こういうのっておかしいと思うんよなあ。もっと互いで支え合えたら、もっといいパフォーマンスが出せると思うんだけど。すぐに人を評価するのっておかしいと思うんよ。

 

 たぶん、自分のなかではその評価っている点がとても引っかかっているのだと思う。人間が人間の物差しで、他の人間の事を評価するってちょっと限界があるんよな。どの評価が正しいかなんて、もう確信が持てんしね。

 

 僕はたぶんもともと人をすぐ評価したがる人間だったんよ。でも、それが間違いだと気がついた。だから、今は評価というものにとても違和感がある。そして今でも自分なりに他人を評価をしてしまうことはあるけど、それが正しいとは思うわないようにしている。まあ、評価ではなく、感想くらいのゆるいものとして考えて、自分は基本正しくないんだと思うようにしている。

 

 もっと大らかな社会へ。そのためにもそれぞれの物差しがゆるーいものになればいいと思うのだけど。